ベランダ

 彼女の部屋は地上十階建てのアパートメントの七階の角部屋で、他の部屋とは比べ物にならない程の陽差しで一杯になる。その壁は白、床も同じく白のここはタイルで、とても幸せそうな光の色で満ちる部屋だった。
 広く、十五畳ほどの部屋に家具は少なく、彼女の身体にぴったりな小さい木製のベッドと、小さな移動式クローゼットが一つ。他といえば、こればかりは異様とも言えよう、大きな一つ壁全面が本棚として機能していた。世界や日本の古典は勿論、最新の文芸書や技術書、哲学書や雑誌類が犇いていて、今にも全て零れ落ちてきたら下敷きとなって埋まり、死んでしまうかのように思われるが、そこが彼女の気質なのかどうか、とても美しく整理がなされていて、いっそ清清しい程であり、しかし一つも人の手が入った痕跡がない訳でもなく、常に幾つかの本が傍らの小さな机やベッドの枕元などに移動を繰り返していた。
 雨の日、彼女は小柄な身体を真新しいシーツに包んで、夕刻のサイレンが喚くまで最新の新書を読していた。里原はそこへ現れたのだった。鍵を掛けない癖のあるリコの部屋へ無断で立ち入る事を許される様になったのは一体いつからだっただろう。何年も前の事のようにも思えるし、つい昨日からのような気もする。里原は駅前で買った花の鉢植えを両手に抱え上がりこむと、南側の方の窓辺に置いた。そこは、ベッドの枕元にあたる場所であり、ベランダへの出入り口でもあった。
 里原は新聞紙を下に敷き、花用の栄養剤のアンプルを土に刺した。滑らかで柔らかい葉が手に触れ、花の香が僅かに散った。里原の動きに完璧な無視を呉れ音読をしている彼女の多少掠れた声が、その時始めて全く違った声音を出した。
「きみかげそう」
 まるで異国の言葉を話す西洋の娘のようだと里原はその時思い、彼もまた、子供のように、きみかげそう、と繰り返した。
「鈴蘭は、君影草」
「ああ、」
 リコは植物が好きだ。道を歩けば忽ち花盗人になってしまうからいけない。それなのに部屋に何一つ植物がないので、一つ持ち込んだのだ。彼女はもう一度、鈴蘭は君影草ね、と言うと、シーツから抜け出しながら音読していた新書を枕に置いた。
 ベッドにシーツから解かれて座す彼女は素肌のままで、里原にクローゼットのワンピース一着をどれか持って来るよう告げる。タイルに里原の素足が音をひたひたと鳴らして、部屋の中ではその音のみがあり、まるで室内には彼しか生きているものはいないように感じられた。声も出さぬリコはまるで死んでいるかのように静かだった。
 里原の選んだ灰色のワンピースを被ると、彼女は鈴蘭のある南側のベランダ窓を開けて、銀色した水の落ちてくる空を見上げたまま、左手で鈴蘭の灼けてしまった赤い葉を探っている。
 雨が降っているのだ。
 お天気雨じゃあないの? リコは静かに静かに言う。雨は朝早くから疾うに降り出していて、既に十時間以上は降っていて、確かに空は少し明るくはあり、昨日の天気は晴れで明日の予報も晴天ではあるけれど、天気雨と呼ぶには長すぎるものだった。
 里原はベッドの下のラジオの周波数を整えて、天気予報の声を探って、雑音の途絶えたところでラジオを持ち彼女の傍らに並んだ。昨日と明日の晴れの合間を潰すかのような丸一日の雨天だと、平坦な声が電波の中で二人に言う。里原はラジオのスイッチを切った。リコの指先が鈴蘭の花を一房千切って顔の前に翳した。黒くて真直ぐな髪と、一つ間違えれば病弱にも思える白い肌と端麗な無表情の前で花の香はゆらゆらと濡れて、落ちた。
「昨日と明日を切り離していくみたいね、雨」
 見上げた空からは点線状になった水が地に近付く程その速度を上げ、煌きの重みを増し、目前を過ぎてあっという間に凋落し、粉粉になった鉱物のように幾度も幾度も撥ね上がるのが遠くからでも良く見えた。まるで贋物のような水滴だ。散散になって簡単に壊れる。
「全部を溶かして導線を消して行くんだわ」
 リコはそう言うと、里原の左手を取って雨に濡れるベランダに連れ出した。彼女の素足が先程落とされた花を踏み拉き、香が水分を含んだがそれも直ぐに降り注がれる雨水に流されてしまう、何処かへと。植物の絶えて間もない一欠片をよそに、手を繋いだ二人は雨降り頻る七階のベランダで、フェンスに互いの空いている側の手をかけ、再び空を見上げ、遠い街並みを眺め、薄く裂けた水に煙る景色を思った。いつか二人は其其が夫夫にこの街の何処かで互いを知らずに生きて、居た。
「何を思い出そうとしているの」
 彼女は繋いだ里原の左手を強く包んで握った。
 雨音が急激に二人を保護するように強くなり、その二人の繋がれた皮膚と皮膚の隙間に水が滲んで温くなって滲み通り絡んだ指先から逃げるように滑り落ちた。
 実際のところ、里原は何を思い出そうとしていたのかさえ忘れてしまっているようで、例えばそれはいつかの出来事なのか、何らかの詩や文節なのか、または何れかの音楽なのか、何処かの人物なのか、そういったカテゴリさえ忘れてしまっているようで全く手に負えない。しかし、日々は何の障害もなく続いている。いつから、いつ、どこで、二人出会う事になった理由もいつの間にか流れていってしまって、遥か彼方で様様なものに埋もれてしまった。苦しくはない。過去を思うことを願おうとして悲嘆に呉れる日日もなく、見えなくなってしまったものを再び追うことを二人は疾うに止めていた。追うたところで、見えたところで、一体この今現在の何が変わるというのだろう。
 繋いだ手の指を絡め直した時、二人の掌の創が微かに触れ合った。濡れて少しふやけて、しかし繋がりあう掌同士の間で開くこともなく、静かな創は二人の運命線を繋いだ。
 運命線の長さを同じにしましょう。と言ったのはある夜のリコで、デザインナイフとメジャーを持ち出してきたのだ。彼女は里原の両手の運命線を測ると、自分のは測れないから、と里原が彼女の運命線を測った。そしてそれぞれの線に創を作りながら線を足して、二人の両手は真っ赤になったが同時に、同じ長さの運命線を持った。
「手相は刻一刻と変化するものらしい」
「でも、これならかわらないでしょう? 変わったらまた、足せばいいんだわ」
 これは私たちの運命の創よ。彼女がそう、作り物のような台詞を吐いたその日に二人は初めて身体を結んだ。四つの重なる手は、赤かった。痛みは一つとしてなかった夜の事だ。あの色だけが曖昧な過去の中で鮮明だ。
「明日は晴れるのよね?」
 リコは繋いだ手を己の目前に掲げ、その繋ぎ目を射るように見て、言った。里原は濡れる身体に温く吹く風の中、そうだよ、夜中には止むさ、と返事をする。
「明日は月曜日だから病院に行く日だ」
「なら、その後、パレードを見に行きましょう?」
 月曜日は、街にどこからともなく奇妙なからくりを持ったパレードが来る。御世辞にも巧いとは言えぬ笛の音に、音調の狂ったアコーディオン、小人の甲高い声のロシア語の歌。狂った色彩の行列は、街の隅から隅まで大きな音で笑って進む。乾燥したこの街で行列は砂埃を舞い上げて、砂霞の向こうへと、消えていくのだ。街の人人は厭うとまではなくとも訝しがり、しかし不気味なその集団を結局は見届けずには居られなかった。結果、毎週月曜日には街中に人人が犇くのだ。
 二人は遠くからでしかパレードを見ることはなかった。人混みの中に入ってまで見ようとは思わなかったが、興味が全くない訳ではなかったので、リコのアパートメントの最上階から見下ろして参観することが幾度かあった。遠くから見下ろすそんな日の街は、人人の影が街の形を変え、奇妙な音色たちがその中を廻っては、時折、こちらを見上げたような気がしてその度に二人はそっとフェンスの陰に隠れた。そういった日は、いつまでも道化師の大きな口に笑われ続けるような幻覚があると言っては恐れ、リコは必ずシーツに包まった身体を里原に寄せて泣いた。
 リコは何かにつけ泣く人だ。
 それを治める代償として里原は自分自身を差し出した。朝陽が怖いと言っては第一級遮光カーテンで家中の窓を閉ざし、闇に不安を抱いては泣き叫び、サイレンに怯えて泣けば耳を削ごうとする彼女の手を止めるのに彼は躍起になった。丸一日、互いに傷つけ合う事しか出来ず、彼女が疲れ果て傷だらけで眠るのを待つ日も多かった。
 雨は二人の身体に滲みてはゆっくりと浸透して足元から自分の形をした水になってしまうような、感覚。
 二人の繋いだ手にリコが雨に濡れた唇をあてた。冷えた空気と雨の中でそれはとても紅く美しく、そして、紛い物のようでさえあった。
「ねえ、きっとよ」
 里原は直ぐには返事を返さない。冷たく柔らかいリコの唇から離されても再び、二人の指は絡んだまま雨に執拗に濡らされていく。皮膚に落ちて滲んで滲みる水滴は水銀のよう。丸くやさしい毒のよう。
 おそらく、また、パレードの夜にリコは泣くのだ。怖いと怯えながら、里原が差し出す手を待つ筈だ。
「こうすれば、私たちの運命線は繋がっていられるのに、雨が入ってきて邪魔ね」
「このまま握り続けていればくっついたままさ」
 二人はベランダで、一身に雨を浴びて、その全てを吸込んでしまったかのように内側まで銀色の水で浸かってしまっていた。ひたひたに泳ぎ疲れたときのような感覚で、二人はそのまままどろみそうになった、その時、指の先端から刹那解けた。
「駄目」
 リコが一つ大きな言葉で吐いて、二人は再び手を強く強く握った。彼女の手は白く、雨にぼやけ、里原の目には白い花のように映った。二人は掌の傷口を合わせるように手を合わせて指を絡め直した。水に濡れた陰が薄暗くなっていく雨天、それは夕闇の赤い空であり、そこで声もなくただ掌の傷の為、果ては二人の為に手は繋がれている。この雨が天気雨だと言うのなら、二人は昨日の晴天と明日の晴天のように切り離されないように、降り頻る雨天の下で固く手を繋ぐだけだ。
 地上七階のベランダで、結んだのは運命線ばかり。

<了>

(2006)


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