siren

 だって仕方がないじゃあないの。
 目を醒ました其処で拘束を余儀なくされていた体のまま彼女は天井に向かって一つ呟いた。喉が酷く渇いていて声は幾つも幾つも歳を取ったように枯れて自分に響いた。室内には幾つかのベッドが並び、カーテンで完全に見えなくされている所もあれば遮られるものなく其処に横たわる人が見える所もあった。見えている人々の大半は動く事もなく大概が何らかの、命を延ばす為の様々な装置に接続されている。看護士や医師が足音静かにされど忙しなく動き回り落ちていってしまいそうな命を拾い集めようと必死だった。機械がたてる奇妙な音と振動が耳に五月蝿い。両耳を塞いでやろうと考えたが肝心の両腕は今その自身に固く拘束されていた。今更確認するまでもなく此処はICU、集中治療室の中で、墨子は目を開けたその時最初に何を見たかまた覚えていられなかったと心中で嘆いた。天井を見た時には既に暫くの時間が過ぎていた筈で、それはその少し前に傍らに居たと思しき看護士が、目を醒ましました、とかいったような事を誰かに伝えているのを聞いた記憶があったからだ。体の上で交差させられた両腕の手首、両の足首に血圧測定器や点滴の針が取り付けられ、何より今顔の半分程を覆っている水色のような緑色のような色をした酸素吸入マスクが邪魔で墨子は頭を振った。けれどそれが外れる訳もなくただ息苦しさが増すばかりで、彼女は生かされているのに何故こんなにも殺されなければならないのかと考えてしまう。そうして発した声は口元で反響して自分だけに響いたのだ。
 毎度の事。医療器具を一つ一つ外されながら何時の間にか自分の周りで人々が自分の為に動いていた事を彼女は少し遅れて知る。断絶される瞬間など知らない。毎度こうして目醒めた後は常よりもの時間のずれを覚えた。少しずつ解かれていく体は今両腕を残して自由となる。体に被せられた薄い布の下で裸の表面が僅かに粟立った。傍らに見知った医師が立っていて彼女に何かを尋ねたが、彼女は巧くそれを受け止められないままに只、だって仕方がないのよ、と虚ろになりゆく視線に反した明確な声で唱えた。今目を開きこの狭い世界を観察出来ていたと思っていたのに次第に体は重くなり眠いという感覚に支配されつつある体を如何にもできない。もしくは初めから体は重たく眠かったのかもしれない。確固たる記憶も証拠も保障もなかった。墨子は再び眠りに落ちたがそれは彼女の命を脅かすようなものではなく、命ある所以のものだという事を彼女は覚えていられない。

(2006)


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