春 葬 

 知らぬ道を歩くような静けさだ。
 かすみが降りたまま拭えない、朝の靄、地をゆっくりと食む足元で早い霜が音を立てて失われる。一つの跫を追随し決して追い抜かないもう一つの跫。繰り返して繰り返して、その韻律は赦すように、守るように、世界に点線を引く。そうして後ろを追くことは驕りだろうか。土岐は白い息で曇る視界を払うように手を翳し、目前の赤い別珍のジャケットを追う。
 朝が来るまで歩こうと、真夜中に言い出したのは榛子で、まだ風邪も治りきっていない身体を冬の路地へ降り立たせた。大抵そういった理由のない我儘を手放しで許していくのが土岐の役割だった。守る事と手放す事が同等の優しさになるのではないかと思うようになったのはいつからだったか、確かなのは、土岐が榛子と時間を共にするようになってからだ。いつかきっとこの娘は、
――果てる。
そう感じたのが最初、助けを求められたのが次、突き放したのがその次、途切れかけたのがその後。総て引き連れて世界と決別したのが、一番近い過去。その時間の間に二人の間にあったのは弛もうとも途切れる事ない一つの糸で、それを榛子は運命だと、いつか言った。それを聞いて土岐はどういう反応をしたのかは、土岐自身よく覚えていない、只、正面から肯定はせず、その事で榛子も何か安心をしたのだ。
 手放す事は放任とは違う。糸の持つ遊びに任せて自由を与えるのだ――かりそめであっても。安全圏のある位置にいる安堵がそのことによって確認されるし、そのことで二人は仕合せと呼ばれる感覚を体に烙くことができるのだ。それはとても大切な事で、二人が二人である為の必須条件だった。手放す事で二人は互いを守る。二人は繋がれている。
 金魚を欲しがった榛子が昨年の冬にいた。
 冬に金魚など、酔狂だ、と土岐は笑い、日程の近い縁日を探った。熱帯魚売り場の金魚では厭だ、露天で自分で手に入れたいと榛子が望んだのだ。
 運良く、一週間後に隣町で小さな縁日が始まる情報を得た。榛子は喜んだ。冬だから浴衣では駄目ね、という榛子に土岐は前年に買い与えた単と道行を示唆した。榛子は喜び勇んで箪笥から深い青の単と同じように深く鮮やかな緑色の道行を衣文掛けに吊るした。二人はそれからの一週間をそれまでと同じで、それまでより少し鮮やかな心持で過ごした。縁日の前日、時は橙色の襟を土産に帰宅した。白い小花柄のものだった。榛子は眠らずにそれを眺め続け、翌朝、土岐が目覚めると既に総て着込んでおり、土岐の為にその冬初めてのウールコートが用意されてあった。外は小さな雪粒が落ち始めてきていた。
 冬の始まりに二人は並んで縁日へ向かった。
 金魚を売る露天は神社の参道の最初の方にあって、しかし榛子は立ち止まり凝っと眺めただけで、すっ、と参道を奥へと進んでいってしまった。参道は長く、露天は傍に犇いている。榛子は金魚売の露天を一つ一つ吟味しているようだった。一軒一軒無言で水槽を見詰めては離れていく。土岐はその二歩後ろを追うばかりだった。冬の縁日の朝は人も多かったが、鮮やかな深緑の道行と、端正な白い横顔と項の榛子は何処に居ても見失う事などなかった。行き違う人々が榛子を振り返った。口口に、美人だの綺麗だのという言葉を唱えた。それを他人の振りをして後ろで見聞きしている土岐は少し、機嫌が良かった。時折、近付いては、榛子、と名を呼び互いを確認させた。張り詰めたような表情をしていた榛子はその瞬間に花綻ぶ表情を見せた。
「今、榛子の事を綺麗だといっていたよ」
 そう言うと、子供のように吃驚した顔をして榛子は照れた。この半襟の事よ、そう誤魔化した。土岐は笑った。
 参道の最後まで露天を見終わった時、榛子は決心をしたと言う風に、最初の所のがいいわ、と言った。土岐は頷いて、参拝を済ませてからにしようと提案し、榛子も頷いて二人は小銭を投げた。榛子は長く手を合わせていた。
 一番最初の露天で榛子は網と茶碗を手にして、また何分も水槽を凝っと見つめていた。土岐の煙草が一本終わる。その頃になってようやく榛子は二匹の赤い琉金を得た。そこで網は破れて露天の主がそこへ黒い琉金を足そうとしたが、結局榛子は二匹だけ赤い琉金を持って帰った。帰路、甘酒を飲みながら、昨晩のうちに大きな瓶を用意したからそこで飼うのだと、榛子は言った。土岐は、傍らを流れる小川で水草を採って、一緒に入れようといった。雪は少し路を覆い始めていた。
 金魚の入った瓶は食卓におかれた。
 水草の緑に赤が鮮やかに泳いだ。
 窓から入る雪を反射した光が鱗を、その冬の間いつまでも照らしていた。
 それを眺める榛子は一冬の間、酷く幸福な顔をしていた。土岐は冬の小川に出かけては新しい水草を採ってくる。榛子はそれを機に水を替える。二人の日々は赤い金魚と共に過ぎた。
 冬が終わるまで。

「榛子、どこまでいくの」
 土岐は今年初めてのウールコートの襟を寄せながら問うた。どれほど時間が過ぎても朝は冷えたままで、手袋をしていない両手は硬くなっていくばかりで、静かに殺されていくようだ。
「もう少し、」
「もう、」
「もう少しで、朝が、ほら、」
 冷え切った上空を榛子の指した。土岐は導かれるように赤い別珍の腕から伸びる白く細い指を見上げる。気付かぬうちに薄れていた靄の向うで、この季節特有の鏡のように光照らす白すぎる空があった。
「晴れてる」
「そうだね」
 二人はいつかの小川の傍らを歩いていた。白い枯れ木が何処までも続いて、忘却の川だ、土岐が呟く。そうね、榛子が応える。珍しく榛子が土岐を手放した。土岐は笑う、どうしたんだろう僕達は。
「悔やんだ?」
 榛子が立ち止まり、振り返る。細い右手を土岐に差し出した。別珍の袖口から白い手首が見えた。それは余りにも――余りにも、知った、そう、知った境界を持つ右手だった。赤い線をいつから榛子は引くようになっていたのだろう。あの冬にはなかったように思う。いや、記憶違いかもしれない。出逢った時には既に榛子は総てから線を引いて、手放された世界にいたのかもしれない。
「多少は、」
 冬はまだ終わらぬと思っていた或る日。
 小さな赤い金魚は滲む雪の向うへ仕舞われた。
 どれだけの加護を与えただろう。どれだけの情を、注いだか。
 榛子が大切に選び抜いて決めた色だったのだ。あれ以上に素晴らしい色形はなかった。この世に二つとない美しいかたちだったのに関わらず。あれは絶えた。醜い白い腹を水面に晒して、完璧な環境で守られて、腐って終えたのだ、総てを。それを榛子は何の感慨もなしに仕舞った。それは土岐が始めて榛子に対して戸惑った瞬間でもあったが、何事もなかった、始めから赤い金魚などいなかったのだというような日常が途切れる事無く榛子との間で紡がれていったから、忘れていた。
 雪が解けて、何処へ行った。あの赤はどこへいった。
「わすれた?」
「どうだろう、そうかもしれない、僕は自信がない」
 光が僅かに差し込む、白い空から色が差し込む、白い世界に差し込む。
 それは終えた色だ。
「どこにもなかったでしょう」
「そうだね」
「運命なんてどこにもなかったでしょう」
「うん」
「神様なんてどこにもいなかったでしょう」
 それはどうかな。咄嗟に土岐は呟いた。ごめんなさい、今のは嘘。榛子がもう一度右手を差し出した。そこでまだ生きている境界線があった。最初に線を引いたのはどちらの世界だろう。嘘も真も包括した二人だけの世界は、最初は自分が提示したのだと土岐は思っていた、けれど、それは始めから裏切られていたのかもしれない、榛子は結局最初から境界を持っていたのだ。そうしてその世界は終わった。
「泣いて、お願い」
「どうしようか」
 土岐はその手を取らない。どうあっても繋がる事などできなかったのだ。まやかしの世界で二人はただ同じ時を同じ距離と速さで歩んできたにすぎない。ああ、驕りだ、自分の驕りだ。土岐は自嘲する。なにもなかった、なにもなかった長い時間しか今はどこを見渡しても遺されていない。そしてその路はこれからも同じ速度で二人の間を灼く。
 白く白く。
 そう、誰からも見放されて。
「ほらもう行っていいよ、僕は少しばかり信じてしまっただけだから」
 榛子は去った。
 白い水際に赤い屍骸が散った。
 晴れ行く靄の跡、頭上から青い空が見えた。あの日の単とよく似ている。あれよりもっと鮮やかな。
 冬は去りゆく、次は春、その次が夏、その後が秋、やがて巡る冬。
 流れ忘却を寄せる小川の傍らに、佇むしか赦されてはいない。
 それでもまだここに、君が運命と笑った切れ端があるだろう?だから僕達は寂しくないだろう?
 土岐は流れの傍らを歩きつづける。掌に赤い屍骸の欠片を載せて。


――了。


(某賞佳作 200604)



INDEX

inserted by FC2 system