ゆきし

 岸辺に灰を撒いた夜を私は忘れない。

 走れっ
 嫌だっ
 走れっ
 赤い色はいのちを示すという。
 赤色灯が私の目前を駆けた
「いのち集めしあれは光り」
 ならば追い付けば連れて行ってはくれないだろうか、例えば今飛び降りる建築を物色している私達のはしたないいのちを。
「走りたくない、イヤだ、そんな幻覚じみた死に方は、ない」
 息を切らせて呟きながら君は私を追いかけてくる。
 四ッ谷の中途半端に遅い夜はいつも近くの大型病院を目指して救急車が走る。青山方面から御苑裏の坂、蚊柱を突っ切って駆け上る。私は足が速い。持久走ならいつも学年で一二を争った。しかし今はその筋力も衰え確かな跳躍の感覚もなく、それはまさに飛んでいるような感覚だった。
 君は私よりずっと足が遅かった。すべてにおいて鈍かった。ただ頭の回転は恐ろしく速かった。君が私に羨ましいと言ったとき、あの日の気温も湿度も居眠りした間の夢も覚えているのに、自分が返した言葉がわからなくなったままだ。
 再会した君は私に、私は君に、死体の匂いを感じていた。腐敗臭だった。真夏のアパートの一室で死んだまま1ヶ月見つからなかった友人が醸した臭い、とは違った。幼い頃に草村でお葬式ごっこをした、春の柔らかで肌をじらすように刺す虫や緑や土や太陽の匂いだった。
「それはきっと死の匂いだ、」
 君は大学に入った後大学の同人誌に詩をうたうようになっていた。やがて方々の同人に発表するようになり、現代の若手詩人とされていたが、本当は映画監督を目指していた。学生寮の手荒に白ペンキを塗りたくった自室の壁にトゥーサンのポスターが二枚貼ってある。
 実際、私達は再会後、やがて死にたがった。
 坂の登り端でスピードを上げた救急車に私達は引き離された。
「死なせてくれんかった、そして君の足はこんなに速かったか?」
 私の足は骨に沿ってそこかしこで鬱血していた。
「しねない」
「別に、死に急ぐ必要はない、あなたはほうっておいても直死ぬ」
 新宿御苑の忘れられた鉄門に君は体当たりをして崩れ落ちた。がしゃん、と大きな不快音が木木の奥深くまで響き渡り、近くの住宅から窓を強く閉める音も聞こえた。
 
 一週間後、私は君のための葬列に黒い服を着てぼんやりと加わっていた。
「あれは光」
 ああ、果たして誰の言葉だったか。
 私は君の望んだ岸辺に君の灰を撒き散らしていた。

(20080715)


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