くつがなる

 絹子ちゃんは、かかとをならして歩いてるの、かわいいねえ。
 すごく奇妙な気持ちになって私は振り返った。キルちゃんが折り畳み傘を丁寧に畳みながら玄関に入ってきたところだった。
 学校の朝はなんて早いのだろうと思う。まだ八時を二十五分過ぎただけだというのに、灯りの足りない蛍光灯二本で視界を保たなければならない黴臭い、埃臭い生徒玄関には私とキルちゃんしかいなかった。この学校は皆優秀だから、きっと今頃全員がきちんと、小さな机と小さな椅子に体を押し込めている。私はアメリカピンを直しながら、おはようキルちゃん、という。声が壁と天井と床に乱反射して、水の底みたいに響いた。
 水の底。あながち嘘じゃないかもしれない。今日は、日付が今日に追いついた瞬間からずっと雨が振り続けている。
「おはよう絹子ちゃん」
 キルちゃんの声はとても綺麗で、それはとても有名な事だった。合唱部でまだ一年生なのに沢山ソロを歌っている彼女の声を知らない人はこの学校にはいなかった。顔は知らなくても声は知られているような子だった。けれど、いつも私にはその声が、きちんと届いてきていないような気がしている。歌は本当に上手で美しくて安心させられるよう、でもこうやって偶にしゃべるときは、その一声が自分に向けられた瞬間からどうしたらいいのかわからなくなってしまう。違和感なのかな、と思わなくもないけれど、歌声と喋り声が同じなわけはないし、とすぐに自分で否定する。歌はあんなに皆の中に届くのに、今目の前で傘を几帳面に畳むキルちゃんの声は私に届いていないような気がする。どこか違うところにいってしまっているんじゃあなかろうか。
「雨の中なのに、踵、ちゃんと綺麗に鳴るんだねえ、」
 目を伏せながら笑うキルちゃんの先端だけ湿った長い髪が、セーラーの襟にそって落ちた。それを目で追って私は気付く。紺色のリボンタイも、稲穂がモティーフの金色した校章も生徒会役員の銀バッジも着いていない。ただ、雨にぬれた鈴蘭の匂いだけが少しした。
「なんか、癖なの」
「癖?」
 くるくると綺麗に畳まれた傘を袋にいれて下駄箱に入れるのと引き換えに真っ白でつるつるした上履きが引き出されて、無造作にプラスティック簀の上に落とされた。生き物を鞭で打つような音が、これはまっすぐに玄関から廊下を伝って中庭まで抜けていった。
「私、あしおとたてて歩いてないと自分が歩いてるかどうか不安になるの、ちっちゃい頃から、それでだと思う」
 キルちゃんは上履きに足を入れて、そのまましゃがみこんだ。私の足元で小さくなっている。
「踵を鳴らしたら、どこまで歩けるの?」
 うずくまるキルちゃんの体の下から細くて短い指がすうっと出てきて、私の上履きの赤いつま先をなぞった。まだ買ったばかりの赤い学年カラーの上履きはまだ足になじんでいなくて少し窮屈だった。そのつま先、指の形がわかるねえ、とキルちゃんは小さく笑う。私は少し居心地が悪い。キルちゃんの顔は全く見えないし、声もさっきよりくぐもってしまって、余計に、なんだかきちんと綺麗に届いてこない。
 チャイムが鳴り響いた。
 壊れてしまう、そんなに沢山大きな音鳴らしたら。
 チャイムなんてきらい、私はいつも思う。
 雨の音さえ聞こえなくなってしまう。いつもと同じ、フィルムにカッターで傷つけたり、墨を混ぜたわけでもないのに、一つ一つの雨粒が鮮明に見えるのに。ただ、水の匂いばかり、薄暗い生徒玄関に溜められていく。雨は、ちゃんとそこで降っている。今は鈴蘭の匂いも少しだけする。
「結構歩けるもんだよ、」
「どれくらいなの?」
「沢山、遠く」
「どこまでなの?」
「……宇宙の端、まで」
「それだけ?」
 私は、足元からただ一つ全ての原子の隙間をぬってまっすぐ自分に届いた声を、きいた。
 長い髪を床に垂らして、茶色い目が潤んでいるのが見える。
 ちゃんと聞こえた。
「どこまでも」
 すう、っとバレリーナみたいに綺麗に立ち上がったキルちゃんは、かわいいねえ、と歌っているように言うとけらけらと大げさに笑って、私の重たい鞄を取上げると歩き出した。湿った冷たい廊下を行く、その背中と自分の赤いつま先を追いかける。鈴蘭の匂いが漂って、私はリボンタイに手をかけた。
 つるつるした真っ白な上履きの踵が、規則正しく鳴っている。


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