03:ツァエガルニク効果

 冬の夜雨は硝子片であるか、私の皮膚を痛いように疵付ける。表皮を削り皮膚を切り裂き骨に絡みつく筋のひとつ手前にまで鋭い金属を差し込まれるような感覚が絶え間なく続き、私は狂うか痛みに死ぬかしてしまうと考える。出掛けに持ち出した雨傘は、一時の晴れ間に油断した私に忘れられ、おそらく今頃見知らぬ誰かをこの痛々しい雨から守っているのだろう。
 斯くして私は身体を雨に差されながら、家路を急ぐばかりであった。
 雨が降るわよ、と私に紺色の雨傘を差し出した女が家にはいる。
 確かに、午前七時半の空は画用紙のような白色をしており、玄関先の気温計は十度に満ちていない。野鳥は低空をさ迷い、その数も季節を抜いて考えても少ない。明らかな悪天候の前触れであり、私は納得し雨傘を受け取り、同時に自分では気付いたにしてももっと遅かっただろうと彼女に感謝もした。子供の頃から気候の変化に気付くのが人一倍遅かった。
 しかし、昼を過ぎてから急に晴れ間がさしたのだ。いつにもまして強い風に押されるようにして晴間が広がり、みるみるうちに淡く橙色づいた陽光が空を満たした。その様子を確認し、周囲にならい羽織物を一枚脱いだ時には既に私の中から雨傘に関する一切が離れていってしまったのだ。
 濡鼠と化した私を迎えた女はこの事態を予測していたのか、玄関先には何枚かのバスタオルと手拭が積まれていた。炬燵で温められていたそれらは大変暖かく、私は冷たい上着を早々に脱いで水滴をぬぐいながら布に包まるようにして脱衣所へ向かった。女が後ろから着替えを抱えてついてくる。
「君は予報士になれる」
「貴方専用ですから、どこにいっても少しも役に立ちやしませんけれど」
 私は下着まで全て脱ぎ、そのまま風呂に入った。湯は私好みの四十一度だったがいつもよりも熱く感じる。骨の芯まで電流を流されているような痺れが走り、暫くすれば落ち着くが冷え切った体の表面をいつまでも奇妙な刺激が行き場なくさ迷い続ける。手足の爪がじんと腫れたような感覚に見舞われ、熱さを感じているのに青白いという、冬特有の感覚の時差を私が楽しみ始めた頃、女も浴室に入ってきた。
 女は長い髪を湯に浸し石鹸を溶かしながら、今日はどちらに傘をおいてきたのかしら? と少々責めるように言った。
「さあ……どこだろう」
「本当に、何かに気をとられるとすぐに忘れてしまうのね。何でも」
 笑い半分、責め半分な物言いで私は大変恐縮した。壁に無造作に塗りこめられているタイルの描く模様を指でたどりながら聞こえない振りをした。
 タイルは無造作に並べられながらも一定の間隔で小鳥の絵を描いている。職人にそうさせたのは私だ。鳥を風呂場に描いたらさぞかし開放感が出るだろうと思い描いたのだが、出来上がったそれは、小さな小鳥がたくさんある絵柄であり、目の悪い私には幾何学的な模様に見えがちで開放感もなにもなかった。珊瑚色と濁った深海色を基本に、鳥になっている部分は黄色を主にあしらっている。まあ、明るい色目には違いなくなんとなく朗らかな色合いであるために、本当は小鳥であることを思わずにいれば落ち着けることに変わりはない。しかし、ふとした瞬間に「小鳥」を思い起こすとどうも気になってしまいまったく落ち着けなくもなる。どうにも、諸刃の剣ならぬ諸刃の壁である。
「あれだけ今朝はしつこく言ってしたのに、どうしてかしら」
 私は完全に答えに詰まった。珊瑚色のタイルに背を預け髪を流す女がため息をつく。
「何の話だ」
「雨傘の話」
「ああ……」
 私は完全に答えに詰まった。本当に思い出せないのだ。それなのに女はおそらくこのまま私を問いただすのに違いない。
「あれだけしつこいほどに貴方は言ってたのに、忘れてしまうくらいだもの。傘なんて忘れてしまって当たり前だわ」
「何を忘れたって?」
 女は少し声にして笑いながら私に冷えた手拭を渡してきた。茹るわよ。
「どうしてかしらね」
 私は女が誰か思い出せない。

【了】

(Type : 29 03:ツァエガルニク効果 / お題配布サイト「追憶の苑」)

(1620字)


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